軽車両を除く

ちゃんとしない・しっかりしない・きちんとしない

「幸せ」の決めつけ

 Aさんは,今日も給食を食べない。食べたら体にいいのに,おいしいのに,味覚が広がるのに,残さず食べましょうってなってるのに…いろいろ「本人のため」を思って食べさせようとしてしまう。

 Bさんは小数のかけ算で悩む。できるようになったら楽しいのに,わかったら気持ちいいのに,いろいろ「将来の幸せ」を思って教えようとしてしまう。

 そんなのは彼の「幸せ」ではないのだ。こちらの考える「幸せ」と彼らの「幸せ」は,絶対違う。「幸せ」を感じるホルモンの量がちがうだろうし,幸せの度合いもちがう。いつも6ぐらいで幸せを感じる教師もいれば,9にならないと幸せを感じない子,3で幸せになってしまう子もいる。

 ひょっとしたら,給食を食べなくても,小数のかけ算をスラスラできなくても,彼らは「幸せ」を感じているのかもしれない。それを「不幸」と決めつけるのは,勝手だ。

 「かわいそう」「つらそう」と決めつけて,勝手に手を出し,助けたかのように思ってしまうけれど,それは間違い。

 近くで見守り,変化に気づき,「手伝いますか?」と声をかける。「手伝ってください」と言われるのを待つ。声には出さないかもしれない。そんなときは,ちょっとずつ支援を出していく。黙って受援するかもしれないし,眉間にしわを寄せて不快を表すかもしれない。そこを見取って,学習者の尊厳を守るのが,プロの仕事。

 教えたいよねえ,役に立つことやってあげたいよね。でも,それは授業者の自己満足。きっと,学習者は求めていない。

勉強したいんです。

 Aさんは,区域外通学で約10㎞離れた街から家の車で登校しています。

 その日は,なんらかの事情で家の車が出せなくなりました。

「今日は送れないよ。」

と家の人に言われましたが,Aさんは鞄を背負って家を出ました。

 登校が遅く,心配した担任がAさん家に電話をすると,

「歩いて学校へ行っちゃったみたいです。きっと,すぐ帰ってくると思います。」

という家の人。

 「条件:徒歩」でナビると家から学校まで約2時間。「あきらめて,家に帰るだろうな」と担任は思いました。

 ところが2時間経っても家から「帰ってきました」の連絡がありません。心配した担任がAさん家に電話をすると,

「帰ってきませんねぇ。」

という家の人。

 「こりゃ,本気で歩いてるぞ」と思った担任は,車でAさんをさがしに出ようと思ったそのとき,

「おはようございます。」

 汗だくになったAさんが登校して,教室に入ってきました。

「すげー,朝のランニング50周以上だな。カードにシール50枚貼っていいよ。」

 その後,普通に授業やって何事もなかったようにしているので,

「なんで,歩いてまでして学校に来ようと思ったの?」

と聞いちゃいけなかったかもしれないことを担任は聞いてしまいました。すると,

「勉強したいんです。先生と勉強したかったんです。」

という,びっくりするような答え。でも,ウソや冗談ではなく,本当の思いみたいでした。

 そこで,気づかされたのは,登校した段階で学習に対する興味関心動機付けはできているってこと。授業の導入で「興味関心を高める」ことをやるってことは,「興味関心がない」と決めつけているんじゃないか。本当は,学校来るほど学習に対する興味関心は十分に高まっているんじゃないか。だから,そこでつまらない授業にしてしまうと,せっかく来てくれたのにがっかりさせてしまうことになる。

 「ラーメン食べたい」と思って来てくれた人に,まずいラーメン出したら,来てくれなくなるよね。学校も来てくれた段階で「勉強したい」と思って来てくれているわけだ。そこで,まずい授業を食わせたら・・・。

私の仕事

特別支援学級担任をしています。

 来年度も支援級で継続するか,普通級に措置がえするか,知的障害で行くか,情緒障害か。子どももも,保護者も選択に迷う。

 何が正解かなんて,分からない。「これが正解です。この通りにしてください」なんて言えない。親子が選択できるように,情報提供はするが,決定は親子がする。その決断が正しいのか,過っているのか,親子は不安で不安で不安でしかたがない。その不安は,ずーっとついてまわるだろう。

 親子がどんな決断をしたとしても,それを正解に近づけていくのが,私の仕事なんだと思う。支援級に入っても,普通級にもどっても,それが正しい判断だったと思える結果を出す。そして「あの決断は間違っていませんでした」「どうなるかと不安でしたが,決断して良かったです」と最終的に思ってもらう。

 「だから言ったじゃないですか」「あのとき,ああしておけば」は,言っちゃいけない。

エスケープの理由

「宿題やってこない日が続いているけど,どうしたの?」

 別に宿題やろうがやらなかろうがどうでもいいのだが,中学進学を控えて「宿題ぐらいは,やってみせろよ」と思ってしまったのが運の尽きだった。

「ゲームに時間取られて,宿題やる暇ないんだって?だったら,宿題やる時間を作るにはどうしたらいいか考えなよ!」

と教室前の広場で指示して放った。

 そしたら,彼はいなくなった。

 あせって,昇降口へいくと

「走って,出て行ったよ。」

と用務のおじさん。「止めてくれよ!」と腹で思ったが,そのまま外へ探しに出る。

 探して探して,彼の自宅まで行くが,いない。家にもいない。

 すると,彼の母親から電話。今,彼は母親の職場にいるらしい。

 ほっとして,彼の母親の職場へ迎えに行く。そのまま,学校へ連れて戻れると思ったらそうはいかなかった。

「ここにいたい。」

 彼は,それだけ言って動こうとしなかった。戻りたくないならしかたがない。教頭に来てもらって,授業をやりに自分だけ学校へ戻った。

 午前の授業を終えて,現場に戻ると,彼の表情はだいぶ緩んでいた。1時間ほどの教頭との会話が,彼の心を溶かしたようだ。

 そのタイミングで聞いてみる。

「どうして,出て行ったの?」

「宿題やろうとは思うんだけど,ゲームに時間取られて,できない。ゲームをやめることができない,宿題やらなきゃならないのに。どうしていいかわからないのに,どうすればいいか自分で考えろって言われて,困って,頭にきて,脱出した。」

 彼は,困っていたのだ。怠けてずるしていたわけではなく,自分でどうにかしようと思っているが,どうにもならないでいたのだった。

それに気づかないまま叱責してしまった。危ない危ない。彼の精神状態と状況次第では,エスケープですまなかったかもしれない。その意味ではラッキーだった。

「じゃ,どうしたらいいかいっしょに考えよう。」

 ゲーム依存のチェックリストから,依存傾向を自覚してもらい,依存のデメリットと克服の困難さを理解してもらった。で,なんだかんだ話しているうちに,彼の母親が合流してきた。彼は,母親の手を握りながらゲームと宿題の両立についていっしょに考えてくれた。

ゲームのやりすぎで家庭でも叱られ続けていたらしい。まともに両親の愛情を時間できない時間が続いたようだ。学校でも,彼は成績優秀で,生活に乱れがないため特に指導を受けることもなかった。それなのに,宿題やらないということで担任からの愛情も断ち切られてしまったと感じたようだ。

今回のエスケープは,親や担任の自分に対する愛情確認行為だったのかもしれない。エスケープしたことで,親も担任も彼の問題について,彼と考え,彼は愛情を確かめることができた。

 もともと彼は作業処理が早いので,帰宅したらドリルを音読して,漢字の書き取りを3分で終わらせ,その後,ゆっくりゲームを楽しむということになった。真の解決にはなっていないが,今の彼には,それでいいのかもしれない。

とりあえずの結論が出たところで,彼は自分で立ち上がって,学校へ戻った。

冷たい時間帯

 人の授業を見ていて,とてもつらい時間帯がある。

 それは「自力解決」と呼ばれる時間帯。

 課題解決の見通しを持ったら,この「自力解決」の段に入る。

 自分の力で解決を図り,自分なりの考えを持ちましょうってことなのだが,

それができる人と,できない人がいる。

 できる人は,黙々と,さっさと解決しちゃってぼーっとしている。

 できない人は,何もできずにぼーっとしている。

 できない人には,「ヒントがほしい人集まれー!」と授業者から声がかかる。

 みんな課題解決に役立つ話を聞きたいので,多くは授業者の周りに集まる。

 

 大勢を集めて,できるだけ早く「自力解決」に戻したいので,授業者は何度も何度も説明をくり返す。説明が終わるたびに「分かった?」「大丈夫?」と聞き,うなずいた子から戻される。戻らなかった子には,よりわかりやすいヒントが提供される。授業者のそばにいればいるほど,分かりやすい説明を聞きつづけることができる。

 ヒントをもらいに行かなかった人たちは「できる人」なのだろうか?

 プライドが許さなかったり,うっかり行きそびれた人もいるだろう。

 そういう人たちは,授業者がこそこそ話すヒントに遠くから聞き耳を立てている。本当は「できない」のでノートは白い。ヒントをもらって帰ってきた子が,自分の席で書いているノートを横目で覗いている人もいる。

 このような時間帯の空気が冷たい。いたたまれない。参観していて,せつない。

 「分からない人は,分かる人を探してヒントをもらおう」「分かる人は,質問されたり,説明を求められたりしたら,全力でこたえよう」「友達と話して,いろいろな考えがあることを知ろう」などと協働を促せば,空気はあったかくなる。

 ヒント出しや,説明よりも授業者がやるべきことは他にある。ヒントや説明は子どもに任せよう。動かない子を揺さぶったり,つないだり,学びの良い姿を褒めたり,写真に撮ったり,やることは山ほどある。

 教えるのではなく,その人が主体的対話的に学びを深められるようにしていけば,冷たい時間帯はなくなる。

暇の過ごし方が分からないので

「スイッチが修理から帰ってこないんです。帰っても,何もすることない,どーしよー。」

 帰宅しても,ゲームできないので不安をあらわにしているAくん。

「テレビ見たり,漫画読んだりしないの?宿題やったら?」

と聞くと,「うーん」とうなるだけ。本気でどうしていいのか分からないらしい。

 暇な時間の過ごし方として,ゲーム1択な子は多い。いろいろあるだろうに。ゲームしか知らない,もしくは「ゲームをやりたい」としか思えないのだ。

 宿題とか自主勉強とか,学力向上に直結する活動だけを指導しがちだが,本当は,多様な遊び方も教えていかなきゃならないんじゃないか。

 父親に連れられて,釣り,スキー,飲み屋,パチンコ,山菜採り,寅さん,こけし,盆栽,ソフトボール,漫画,蕎麦打ちなどいろいろな遊びに付き合った。面白みを感じないことが多かったが,いろいろあるんだなと知ることができた。

 「学習だけじゃなくて,遊び方も見せる必要がある」みたいなことを話したら,「うちでは父親がゲームしかやらない」「子どもとはゲームでしか遊ばない」という話が返ってきた。

 暇の過ごし方が分からないので,仕事,仕事,仕事でスケジュールを埋め,合間にゲーム。そんな大人になりたくないなあ。

「止めるから,転ぶんだ!」

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 スキー場のスキースクールの専属スキーインストラクターたちに,指導していただきます。

 インストラクターたちにとって普通のスキースクールと違うのは,スキーが好きな人だけではないということ。まったくやる気ゼロなのに,仕事なので参加させられている人も少なくない。

 去年,結構滑ることができるようになったので,自信を持って参加した中級レベルの普段はスキーをやらない人たち。「けっこう滑れる」という自負を持って参加したのですが・・・。今日のゲレンデコンディションは悪かった。積雪が0近く,土や草が見えている。雪質も悪く,雪と言うよりクラッシュアイスがアイスバーンにまき散らされている感じ。とても,初中級の力とレンタル板の甘いエッジで抑えきれる状態ではない。

 結果,曲がれない,止まれない続出。「去年より,下手になった」という落胆の声多数。事前に中級レベルであることを自己申告した人も,まったくコントロールできず,滑りだけを見れば初級レベルに成り下がっている。それでも,指導を通そうとしたり,転んでも自分で立ち上がるまで見守り続けたりするインストラクターについていけず,妨害したり,逃走したりする人もいて・・・。

 うちの人たちも,自信をなくした上に,指導から落ちこぼれ,ついにエスケープ。気づくと私の周りで寝っ転がっている。で,Aくんの名言。

「いちいち止まってぐずぐず教えるからつまんねえ。」

「止めるから転ぶんだ。」

「もっと,止まらないで,ずーっと滑っていたいよ!!」

 どうせ,曲がれない止まれない雪質なんだよね。指導しようとして全体を少しずつ進めては止め,進めては止めして,曲がり方や止まり方を教えてもスキーの楽しさを味わえない。いっそ,すーっと直滑降して,加速を楽しみ,バランスを保ちながら自然に減速して止まるほうが,スキーを楽しめるのではないかな?

 指示・発問でいちいち流れを止めることなく,学ぶ人たちが上から下までノンストップでその学びを存分に楽しめるようなスキーにしたいね。